岐阜 飛騨古川祭

飛騨古川祭(起し太鼓)

私は、4月に古川を訪問する前に、古川祭について非常にたくさんのことを聞いていました。その祭りは、一週間前に近くの高山で開催されるものほど有名ではありませんが、事情通の人々には、古川は、4月半ばの特定の日々に祭りを開催する唯一の場所としてよく知られています。 私の友人は、ロンドンの西にあるウィンブルドンのパブに座っている間に、私がどんなことを見ることができるか、すべてを詳しく話してくれました。それは、その評判がどんなに遠くまで広がったかということを示しています。 彼の説明は、現実のものとそんなに大きく違いませんでした。大勢の群衆。さらしを巻いて一升ビンの酒を飲む男たち。これらの男たちが、太鼓を担ぎ、狭い通りにいっぱいになり、進路をふさぐものすべてを押しのけていきます。 見物の群衆は、彼らをほめたたえ、夢中になり、追撃のスリルを全身で味わっています。これはまさしく追撃です。持久力と勇気のある若者たちの集団は、周囲の場所から、他の組を押しのけながら、容赦なく大太鼓を支える木製の櫓(やぐら)を追いかけ、彼らが持っている付け太鼓の丸太を櫓に付けようとします。

古川祭

これが本当に私が見たものでした。大太鼓を追いかける、熱狂的な老若の男たちが醸し出すその雰囲気は、本当に何か特別のものでした。

これが、4月のあの夜、我々がその中にいたときの様子です。我々は、起し太鼓の行進が中央の広場から始まったのを見ていました。我々は端の方にいたので、狭い通りを行進に付いて行くことはとてもできませんでした。 我々は、それがとるコースを知らなかったので、しばらくの間、途方に暮れていました。我々は、着物を着て提灯(ちょうちん)を持った老人を見たので、どこで行進を見るのが一番良いか尋ねました。 彼は、我々に付いて来るように手招きしました。広場から離れ、2つの横町を通り過ぎ、しばらくすると彼の家に着きました。我々が家の中に入ったとき、我々を迎えた光景に驚きました。私は決してそれを忘れないでしょう。 大きな和室(日本の畳の部屋)に長いテーブルが置かれ、半分の席に先客がいておしゃべりをしていました。先客たちは、我々が入っていくと、話をやめて、私たちに挨拶(あいさつ)し、座って夕食を待つようにジェスチュアしました。 そして、我々は楽しい夕食をいただいたが、こんなことをしてもらっていいのか信じられませんでした。我々は自己紹介をしましたが、私は、我々の仲間が驚かなかったことに驚きました。 私は、あの夜にその老人がしてくれた親切を忘れないでしょう。彼は、我々が彼の家の2階から行進を見ることができる、と語りました。しばらくして、彼の合図で我々は2階に行き、できるだけ窓から外へ身を乗り出して、カメラも準備しました。 やがて、狭い通りを、こちらへ行進がやってきました。巨大な太鼓は、私たちと同じ高さでした。40あるいは50人の人が、大声で歌いながら巨大な木製の櫓を担いでおり、2人の男が太鼓の上に座り、交互に力いっぱい太鼓を打っていました。

その瞬間、雑音と喧騒(けんそう)が次第に強くなり、我々は目の前の光景にくぎづけになりました。1つの若者の組が、大太鼓の後衛を打ち破り、これを阻止しようとする動きにもかかわらず、櫓の後ろに付け太鼓を付けることができました。 敗者は、勝利と栄誉を勝者に譲らなければならないことを知っているので、櫓が遠ざかるにつれて、押し合いは更に激しくなり、小競り合いとなりました。

古川祭

我々は、勝利に酔いしれることや、敗北の失意を味わうことなく、しかしながら、この珍しく力強い祭りを発見できた喜びを心ひそかに持ちながら帰りました。

マシュー ジョン ハルセイ (英国出身)
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