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戦国、江戸、幕末の歴代藩主を見守り続けた「お城山」。標高135メートルの臥牛山(がぎゅうさん)を天然の要塞(ようさい)とする村上城は、鎌倉時代から築かれていたといわれています。しかし城のことが初めて記録に登場するのは、戦国時代に入ってからで、「越後国瀬波群絵図」(1597年)が現存する最古の資料とされています。それには、藩主、本庄繁長が築いた「村上ようがい」が描かれています。「村上ようがい」は、まだ石垣もなく、建物はごく小規模なものでした。城が近世城郭として形をなしたのは、さらに村上頼勝、忠勝と城主が代わった後、1618年に入城した堀直竒(なおより)の時代です。直奇は、天守閣をはじめとする櫓(やぐら)の建設、石垣の補強など、大規模な造営工事を行いました。また、城下の拡張にも力を注ぎ、城下町の整備はほぼこのときに完成しています。しかし、後継ぎに恵まれなかった堀家は断絶。城は一時幕府領となった後、1644年、本多忠義を藩主に迎え入れます。以後、幕末まで300年足らずの間に、松平直矩(なおのり)から内藤氏(9代)まで、城主は20人以上も入れ替わりました。3時代にわたり、歴代藩主を迎え入れ、村上城下を見守りつづけたこの城は、明治元年(1868年)に起こった戊辰戦争で、新政府軍に追い込まれた村上藩自らの手で火を放たれ、焼失し、現在は、わずかに石垣を残すのみとなっています。 |
