岡崎 歴史

家康像

幼少期に辛酸をなめた家康は、まさに大器晩成の人でした。

家康は松平広忠(ひろただ)の子として1542年(天文11年)に岡崎城で生まれました。当時松平家は、東は駿府の今川義元、西は尾張の織田信秀(信長の父)の抗争間で苦悩していました。家康は両家の緊張を保つために人質として引き合いに出され、その幼少・青年期は不遇なものでした。6歳で駿府の今川氏のもとへ人質として赴く途中、織田氏に奪われ、織田方で2年余りを過ごしますが、その後の人質交換によって今川氏に帰されます。人質生活は実に19歳まで続きました。
1560年(永禄3年)、桶狭間の合戦で、織田信長によって今川義元が殺されると、家康は人質の身から脱して岡崎城に戻り、ただちに三河平定に乗り出します。まず、今川方と手を切り、信長と和睦(わぼく)、西側を安定させた上で東国攻めを開始します。しかし、このころ三河領内で一向一揆(いっこういっき)が勃発。苦戦を強いられますが、約半年間で鎮圧に成功し、さらに今川方を次々と撃退。ついに三河全土の統一に成功しました。
家康はその後、織田信長と手を結んで着実に領土を延ばし、豊臣秀吉の時代にはその配下に入って地位向上に努め、冷静な洞察力と忍耐力をもって、天下統一の機会をねらいます。秀吉の死後、その好機は訪れ、関ケ原の戦いで豊臣方を撃破、66歳にして天下統一の悲願を成就させました。

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