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日本で造られた船が、初めて二つの大洋を渡りました。伊達政宗は支倉常長を遣欧使節に任命。伊達藩の一藩士だった常長は、このときから、世界という大きな舞台に漕ぎ出していくことになります。二つの大洋を越えてはるかローマへ到達するためには、まず頑丈な船が必要でした。そのため、イスパニアのビスカイーノらと幕府から駆けつけた船大工を中心に、約4,400人の労力と6カ月の月日をかけて500トン級のガレオン船が建造されました。サン・フアン・バウティスタ号の誕生です。これだけの大事業を行うことで政宗が密かにめざしたのは、ローマ教皇とイスパニアの支持を得て「日本皇帝」に君臨し、その勢力を伸ばすことだったとする見方もあります。
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1613年10月に出帆した常長一行は約3カ月かけて太平洋を横断し、アカプルコに到達しました。メキシコ市でキリスト教の洗礼を受け、キューバを経てイスパニアへ。ローマに着いたのは、月ノ浦をたってから実に2年後、1615年の10月でした。
ローマ教皇に謁見。ここでは名誉市民の称号も贈られます。しかし日本で激しくなっていたキリスト教弾圧の動きがローマにも伝えられ、常長の当初の目的であるメキシコとの通商は認められませんでした。
秘匿(ひとく)された支倉常長の渡欧
1622年不遇のうちに病死した支倉常長の記念館が、長い間秘匿されていた墓碑とともに、仙台市郊外の大郷町(おおさとまち)にあります。支倉使節団(慶長渡 欧使節団)の渡欧は260年もの間秘匿され、1873年(明治6年)岩倉具視がローマ法王に謁見(えっけん)した際に初めて明らかになりました。秘匿の理由は、表面上は徳川幕府の鎖国政策のためと言われていますが、使節団遣欧の伊達政宗の真の意図については諸説があり、そのことと関連があるのではとも考えられています。常長は禁教の時代に帰国し、キリスト教徒として処刑されそうになりましたが許されています。
●JR東北本線松島駅下車、車で約15分。大郷町役場企画商工課/022-359-5502

